ここが変だよ現代人

これは先日のブログと重なる部分があるかも知れないが、最近疑問に感じた事があったので敢えてここに書いてみることにした

 

最近の日本人は別に使わなくていい場面で‘‘敢えて‘‘英語を使う事が増えてきた。cmで言えば「結果にコミ〇トする」が代表的だろうか?まぁそもそもcommitという英語は「委託する、引き渡す」という意味なので別に間違いではないのだが、問題はこの意味を分かっている視聴者がどれだけいるかということである。

 

無論、僕は英語をよく分かっていない人を馬鹿にするつもりは毛頭ない(自分も人並みに扱えるかどうかぐらいのレベルでしかないから)。問題なのはこれで会話がわかりづらくなることと日本語自体に対する一種の‘‘コンプレックス‘‘を感じてしまうことだと思う。

 

どっかのニュース系のバラエティ番組で、日本語の英語化?みたいなテーマの話題が出て、それこそ一般人がインタビューでルー大柴ばりの「ジャパングリッシュ」を披露していたのだが、驚いたのはビジネスマンが会議等でその意味をよく知らずに英単語を使っていたということなのである。こんなことをして海外の企業との交渉で大きな誤解が生まれてしまったらどうするのだろうか?

 

あともうひとつの問題についてなのだが、これは実体験で日本語は素晴らしいと思ったことを説明したいと思う

 

僕は英語圏に一年半くらいの滞在経験がある、と言ってもそこまでの英語力は無いのだがそれでもディスカッションや向こうの友人との遊びなどでやはり英語を使う機会が多かった。そこで思ったのは、‘‘日本語は芸術的な言語である‘‘ということである。

 

英語というのはそもそも性質としては「論理」が一番に重視された言語なのでわかりやすいし、特に理系の人間なら文法も含めて好きになれそうなものではある。しかしそれを突き詰めているために日本語のような‘‘色彩を感じ取れるような表現‘‘をするのは難しい。

 

例えば日本語の文化とも言える俳句や和歌というのはそれに等しいと思う。松尾芭蕉‘‘静けさや 岩に染み入る 蝉の声‘‘という俳句を引用してみてもやはりその時の情緒などを感じ取り易くも感じる。

 

日本語は‘‘芸術を表現する‘‘という意味では素晴らしい言語なので個人的には廃れてほしくないものである